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酒田大火から50年 記憶を紡ぎ次世代へ

1976年10月29日に発生した酒田大火から50年。

消防士1人の命と多くの人々の日常を奪った大火は、発生から半世紀の節目を迎えました。当時、新人の消防士として、実際に消火活動を行ったひとりの男性の思い、そして、大火の経験から生まれた市の防災対策について取材しました。

10月25日に開かれた「酒田市大火50年式典」。ステージでは、当時を知る市民と地元の児童が「防火の誓い」を読み上げました。

「この教訓を次の世代へ確かに引き継ぎ、安全で安心して暮らせる酒田市を未来へつなぎます」

「(式典に参加し)酒田大火の重みなどが分かって自分にとっても良い機会になった」
「ぼくの夢は消防士なので、立派な消防士になって酒田を守りたい」

酒田市文化資料館 光丘文庫。ここに、当時の消火活動で使われた無線の通信記録が残されています。

「火の手が新井田川まで来ています。家が5~6軒燃えている模様」

1976年10月29日の午後5時40分ごろ、1軒の映画館から上がった炎は瞬く間に燃え広がります。

炎は、東京ドームおよそ5個分に相当する22.5ヘクタールを焼き、1774棟が被害を受けました。消防士1人が死亡、重傷者は10人にのぼり、多くの市民の日常生活を一変させました。

当時、採用2年目の新人消防士として消火活動にあたった土井寿信さん。あの日の記憶を語ってくれました。

【元酒田地区広域行政組合消防本部 消防長 土井寿信さん】
「あのT字路あたりが、『グリーンハウス』があった場所。そこが酒田大火の出火点」

映画館「グリーンハウス」から上がった炎。風速25メートルを超える台風並みの強風にあおられ、風下となる東側の、商店街などに急速に燃え広がりました。

「この中通り商店街は、火と風が通り抜けた場所。(消防隊が放水しても)水が風の勢いで返ってくる、遠くに届く前に。逆に火は頭上をバンバン飛んでいって、大きな火の塊が後方に飛んでしまって消防隊の後ろから火が出て、もう手の施しようのない状態だった。本当に恐怖というか、信じられないようなものを見ながら、無我夢中で対応した」

火元の「グリーンハウス」から、直線距離で900メートル離れている、新井田川。

「この場所が、酒田大火と消防との『最後の決戦場』」

およそ70台の消防ポンプ車が土手に集結し、一斉放水による「水のカーテン」を作って延焼を阻止。

発生からおよそ半日後の翌30日の午前5時に、鎮火が宣言されました。

「当時の酒田の消防職員は、約130人現場に出ているが、酒田市の消防団員は、なんといっても約1700人もの人たちが早期に現場に出ていた。その活動力はすさまじいものだった」

市民の暮らしを一変させた大火。この惨事を教訓に、市は防災都市の建設に取り組んできました。

【酒田市危機管理監 平井雅史さん】
「こちらが、酒田市の大通り。大火以前は、片側一車線だったが、大火後に、片側二車線にした。これは延焼があった際に、この通りで食い止めるといった目的がある」
「こちらが、復興の際に整備された中通り商店街。このアーケードは、はしごをかけて、上に登れるようになっていて、アーケードの上の方から消火活動ができるという特徴がある」

そして、大通り沿いや商店街の中などに、公園緑地を建設。こちらも延焼を防ぐ効果があり、避難場所としても活用することができます。

酒田大火から50年の節目を迎えた26年には、中心市街地の再生に向け「酒田市まちなかグランドデザイン」が策定されました。にぎわいが失われつつある中町エリアを、再び多くの人が行き交うまちにするためのプロジェクトが動き始めています。

「酒田市には東北公益文科大学の学生など若い学生がたくさんいるので、皆さんに日常的に訪れてもらえるようなまちになってほしい。今後、官民連携して中町の再生に取り組んでいきたい」

あの惨事を繰り返さないために。大火の記憶を次世代につなぎ、防火への意識を保ち続けることが 必要とされています。 

「酒田大火当時、私は小学生だったが、父親とともに現場を見にきた。もう全く何もない、焼け野原の状態になっていたのを記憶している。そういった大きな悲劇はもう二度と起こさないという気持ちで仕事に臨みたい」

【元酒田地区広域行政組合消防本部 消防長 土井寿信さん】
「やはり火は怖いものだということを絶対に忘れてほしくない。火事は起こしてはダメだが、もし少しでも大きくなったら大きい声を出して助けを呼ぶ。それを聞いた人が早く助けてあげる。根本はそこにあると思う」